今日も一日頑張んべい。
9:40
「喪失感」なのか?
「楽しみ」について考えていた。
ここ数年、何をしても楽しめないと思っている。
楽しもうと思ってしたことが、心底楽しめず、返ってその反動で落ち込むことが多かった。
友人から「気晴らし」に何かをしようと誘われても、結局気が晴れることがなかった。
この病になって、「もう楽しめない」「気晴らしも気晴らしにはならない」と思っている。
「楽しむこと」や「気を晴らすこと」より「安らげること」「癒されること」を強く求めている。
その方が病の回復には必要だと思っている。
けれど、一人で過ごすことが多い今の生活では、なかなか安らいだり癒されたりする機会はない。
そんな機会が全くないわけではないが、非常に限られている。
自問してみた。
今の生活の中で「楽しい」と思えることがどれほどあるのか?
第一に思い着いたのは「食べること」だ。
贅沢で高価なものでなくても、自分なりに「美味しい」と思うことはよくある。
そして「親しい友人と過ごす時間」。
たとえ少しの時間でも、病のことを忘れ、楽しかった昔に戻れる。
いや「昔」だけでなく「その時」を楽しんでいられる。
ただ、そんな楽しい時間の後には寂しさが浮かんでくる。
「食べること」は毎日確実にやってくるが、友人たちとのイベントは次の機会までが空しくさえ思える。
9月頃からテレビの連続ドラマをいくつか見るようにし始めた。
次の週を「楽しみ」に待つ気持ちがあった。
けれど、年末になってそのうちのいくつかは最終回を迎える。
寂しく、嫌な気分に包まれる。
結局は、「楽しいこと」の後には「喪失感」がついてくる。
カウンセラーに気付かされたが、私の病の発現には喪失感があったのだという。
十数年前では、学級担任を外れたことで「仕事」を無くした。
当時の私は「我が子」を無くした気持ちに陥ったようだ。
数年前には、多数の職員の転勤で「積み上げてきた組織」を無くしたようだ。
メンタル的な部分で、私の病の治療には「喪失感」がキーポイントなのかも知れない。
脳内物質のセロトニンやノルアドレナリンの変調はここから来ているのかも知れない。
「喪失感」をどうコントロールするかを、認知療法で取り組むべきなのか?
喪失感が脳内物質の変調を生むのか、脳内物質の変調が喪失感を生むのか・・・。
これまでは後者だと思っていたが、前者を基本に治療に取り組むべきかも知れない。
難しいことをあれこれ考えるのは今の私にとって良くないかも知れないが、取り敢えずはこのことを少し意識して生活するべきかも知れない。
「認知療法は私には必要ない」などと誤解していてはいけない。
そんな「思い上がり」が、この病を生んでいるかも知れない。
「書くことは、考えること」。
これが認知療法の本質か?
「・・・かも知れない」ばかりの稚拙な文章だ。
お読み頂いてありがとうございます。「見たよ」のひと言でいいのでコメントお願いします。
2007年12月14日金曜日
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